公式プロフィールにも書いているように、ジャズシンガーに憧れた10代後半の頃。
父方の曾祖母が御詠歌の名手だったとか、父が生前、カラオケ大会で優勝するくらい歌が上手かったとかはあったものの、ごくごく普通の庶民の家庭、小さな町の金物屋さんの長女として、芸能・音楽にはまったくもって縁のない家庭に育った。
歌手になりたい、音楽をやりたいなんて恥ずかしくて、とてもとても両親や家族に言える雰囲気ではなく、うどん屋で放課後にバイトして稼いだお金をはたいて、高名なジャズピアニスト小曽根真さんの父上、小曽根実さん主催のオゾネミュージックスクールにこっそり入学。
月に二度だったか、10代の私には高額な月謝を工面し、なんとかかんとかレッスンを受けていた。
たぶんこのことは、家族は今でも誰も知らないと思う。
ガラス張りのスタジオで、今を時めく小曽根真さんがピアノを練習していたのを覚えている。
そうそう、当時の新譜にサインをしてくださったっけ。
レッスンで最初に習ったのは”All of Me”と”The way we were”。
発声練習の時はいいのに、いざ歌うときにになるとパワーダウンするわねえと先生(元宝塚の方でいまでもシンガーとして活躍されている)に言われてしまう、残念ながらあまり優秀な生徒ではなかった。
1年半くらいは通ったのかな。一度だけ出た発表会。
北野の小さなジャズクラブだった。
当時の同い年の彼氏がちゃんとスーツを着て聴きに来てくれたっけ。
私は黒のロングドレスとこだわりの黒の長手袋を身に着け、恰好だけは一丁前に「THE・ジャズシンガー」。
へたっぴなくせにその格好。
思い出したら顔から火が出そうだけれど、その当時から衣装にはこだわっていたみたい。
ドレスと長手袋は少ない予算で神戸中を探し回った。
探している最中に担当の先生にばったりお会いし、「衣装を探しているの?」と声をかけられとても恥ずかしかったのをよく覚えている。
発表会当日。
恐れ多くも小曽根実さんのピアノ、ベテランのベーシスト、ベテランのドラマーのトリオをバックに歌ったのは”Come Rain or Come Shine”。
ベッド・ミドラー主演「For The Boys」の劇中で歌われるこの曲にとても憧れた。
「晴れても曇ってもあなたのことを思っているわ」、なんて二十歳そこそこの小娘に歌える内容ではないけれど。
それはもう死ぬほど緊張しなんとか本番を終えたこと、当時の彼氏がうっとりと聴いてくれとても褒めてくれたこと、同世代の生徒たちの上手さに舌を巻き、ああ、自分は全然だめだと落胆したことをよく覚えている。
そうだ、大学の先輩のサトコさんも来てくれた。嬉しかったな。
残念ながらその後、その教室は阪神大震災で被災し同じ場所では継続できなくなった。
私も実家が全壊。
住んでいたマンションは辛うじて残ったもののライフラインは数ヶ月ストップ。
トイレを流すために近所に川の水を汲みに行き、余震が怖いので家族全員で同じ部屋で洋服を着たまま、こたつに足を突っ込んで眠る日々が続いた。
実家の金物屋の片付けが毎日大変だったし、交通機関が麻痺していたので大学にも通えず、もちろんのこと歌のレッスンどころではなくなった。
そして約半年後、実家の金物屋の片付けがほぼ落ち着いた頃、大学からそろそろ授業に戻ってくださいと連絡があった。
交通機関が完全には復活していなかったので、大学に通うために奨学金をもらいつつひとり暮らしをすることになり、父の軽トラックに荷物を積んで大阪に引っ越した。
そしてそのまま、ボーカルレッスンを再開することはなかった。