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10月 07, 2016
木村ハルヨ物語4 〜続・二胡との出会い〜
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就職活動をする波には乗れず、というか周囲に自由人が多かった(しかいなかったとも言える)のでそんな雰囲気では全くなく、何をすると決めないまま大学を卒業した。

 

そういえば就職しないのかと両親に聞かれた覚えはない。

真ん中の妹も自営業で、一度も就職していない。

今思えば不思議だ。両親はどう思っていたのだろう。

 

ある時、何になりたいかと教授に聞かれ、文化人になりたい、なんて言ったりしてた。

何かを作る人になりたいと、本当に漠然と思っていた。

でもはっきりと何をしたいのかわからない。

 

で、なんとなく大学院へ。

専攻していた彫金、シルバーアクセサリー作りはそれなりに面白かったけれど、夢中になれるほどではなかった。

ごめんなさい、熊谷先生。

先生宛に一通手紙を書いただけで、大学院を半年で辞めてしまった。

 

 

実家へ戻り、せっかくだからと取得していた美術科教員免許で神戸市の講師に登録したところ、すぐに連絡があり非常勤の講師として中学校に勤めることになった。

そこから数年間、中学校、小学校、盲学校で美術、図工の講師として非常勤で、たまに常勤で働いた。

 

 

驚くことに、美術科の教材選びは100パーセント教師に任されていた。

わたしは生徒たちにただただ「となりの友達の顔を描きましょう」なんていう手抜きは嫌だったから、まずは鉛筆の削り方から教えた。

 

美術が嫌いな生徒が多くて悲しかったので、ひとりでも美術を好きになって欲しいと思っていろいろな教材を考えた。

写真みたいに描けるのが上手なんじゃない、思うように表現したらいいんだよ。

美術なんて勉強じゃない、絶対に必要なものではないけれど、日々を、人生を豊かにするもの。

こんなに面白いものなんだよ、と少しでも感じて欲しいと思った。

それは手応えがあり、それなりに面白いことだった。

プライベートでも”先生”でいることを求められる教師という仕事は、本当に本当に大変だったけれど。

 

 

何校目かに勤務しているとき、神戸市教員採用試験を受け一次試験に受かった。

その時の校長教頭同僚一同が大喜びしてくれる中、ある人だけが

「木村さんは先生になってはいけない。私みたいになってはいけない」と。

びっくりすると同時に、はっとした。

 

確かに、私はまた流されてしまうのだろうか。

みんなが喜んでくれる、両親ももちろん喜んでいる。

ここで二次試験まで受かってしまうと教員人生まっしぐら。

本当にいいの?

試験をパスするということ自体は嬉しいけれど、収入は安定するけれど、、、。

本当は何がしたい?

私の意思はどこにある?

ふと我に返った。

 

 

そして私、二次試験を落ちた。

棄権をするには周囲への説明が面倒で、落ちるように受けた。

本当になりたい人に失礼な話だと思う。

 

 

その時私に教員になるなと言った打樋先生。

彼女も今でもたまに演奏を聴きにきてくださる。そして、いつも、あの時の話をする。

もし教師になっていたら、、、。

こんな素敵な未来はきっとありませんでした。

打樋先生、あなたのおかげです!

 

 

大学院を辞めて神戸の実家に戻り、実家の手伝いをしたり美術講師をしたりしていた頃、高校時代の友人と久しぶりに会ったら最近バンドを始めたと。

私もやりたい!と仲間にしてもらったのが”ゴシラカワ☆アーミー”、略して”ゴシアミ”というイカレた名前のバンド。

 

ソウルフラワーユニオンのような、と言ったら伝わるだろうか。

三線がいて、テルミンがいて、ギター、キーボード、クラリネット、そして私は着物を着てサングラスをかけてなんちゃってちんどん太鼓を叩いたり、コーラスしたり、たまに歌ったりしていた。

 

高校時代に一瞬「バンドやろうぜ」みたいな話はあったものの流れてしまったので、何もかもが初めてで楽しかった。

 

スタジオに入るのもこれが初めての経験だった。

時効なので言ってしまうけれど、ステージネームは”ブレンダ”だった。

黒歴史だ。

 

 

社会人アマチュアバンドなので、新開地ミュージックストリートなどの週末に地元のイベント等に出ていたのだけれど、確か六甲山でのステージをたまたま母の友人が観ていた。

 

それが本当の二胡との出会いのきっかけとなる。